(社会)契約説について

昔から、社会契約説というものについて、教科書的な解説が腑に落ちずにいた。そう、近代以降の国家社会、とくに民主主義社会のあり方を支える重要な思想だといわれている、あのルソーやロックの社会契約説のことです。少し前、ヒュームの原初契約批判を読んで、多少はモヤモヤが晴れたかな、とも思っていたのだが、それでもなんか、まだストンと落ちたという感じはありませんでした。

しかし、ですね、この元旦から読み始めたある本のおかげで、少なくとも、なぜ自分がこれまで社会契約説とうまく付き合ってこれなかったのか、だけは、よくわかったような気がする。考えてみれば、これは政治学者としては、かなり大きなというか、一生の収穫ともいえるような、開眼である。これまでは、「あなた、政治学者として、社会契約説をどう評価してますか」と問われても、きっと自分の立ち位置がわからず、ムニュムニュとごまかしていたと思う。これからは、少なくとも自分の言葉で語り始めることができるのではないか、という気がする。

あまり長く書くことはしませんが、社会契約説が民主主義を支える思想である、という考え方は、結局のところヨーロッパにおける民主化闘争の延長というか継続の上に、アメリカ革命とそれ以降の民主主義の展開を捉える考え方なんですね。イギリスにおいては、マグナカルタ、名誉革命など、実際に王(独裁者)と民(一般の人々)が(暴力や内戦をのりこえて)交渉をして、まさに契約(ないしは合意)をかわして、国の形を決めた。そこでは、権利は契約に由来するという考え方が、理念的にも歴史的事実としても裏付けられる(notwithstanding ヒュームの批判)ことになる。

しかし、アメリカ革命とは、そういう歴史と一線を画す、むしろまったく新しい展開である、という見方も成り立つのではないかと思う。つまり、独立のあと連邦国家として誕生したとき、アメリカでは、権利は憲法に書くことによって、憲法が保障するものである、というまったくあたらしい考え方が生まれたのであり、そこには国民が誰かと交渉して契約したり合意したりするものだ、という発想はなかったのである。この意味では、アメリカの民主主義というのは、われわれが教科書でまなぶ社会契約説とは無関係に、誕生したともいえる。

もっといえば、1789年にアメリカにおいて誕生した立憲主義は、契約ではなく、憲法に書くということで、架空の(抽象的な)契約の存在ないしその重要性を否定する意味をもっていたともいえる。だから、それは実は、社会契約説の延長どころか、社会契約説と真っ向から対立する考え方として捉えられるべきと思うのである。