トランプ政権のシリア攻撃について

ボクは、政治や国際関係についての説明として、属人的な説明はなるべく排除すべきであると、ずーっと主張してきた。ヒトラーがいたからドイツが拡張主義に陥ったのではなく、またゴルバチョフがいたからソ連が改革に踏み切ったのではなく、より深層にある、なにか構造的ないくつかの要因、すなわちひと一人では制御しえない諸要因が、ヒトラーやゴルバチョフをそれぞれ時代の申し子として生み出す背景を作ったと考えるべきである、と常々いってきた。

なぜ属人的な理由を嫌うのか。事件や現象の原因として属人的な要素を決定的なものとみなしてもよい、とすることになると、とくに歴史的に重要な事件・現象は、どれもそれぞれにしか登場しないユニークな要因によって説明されるということになりかねない。そのような説明では、異なる事件や現象を比較したり、そこから一般化された法則や命題を導くことができなくなってしまう。政治や国際関係をたんに会話のネタにするレベルであればよいかもしれないが、すくなくとも学問的に(社会科学として)政治や国際関係を分析することからは、遠ざかるからである。

さて、ところが、このボクでさえ、現在のアメリカのトランプ政権については、どう考えても、ドナルド・トランプという人間の個性抜きには、うまく解釈できないであろうと思っている。たしかに、トランプ政権の誕生については、上記のヒトラーやゴルバチョフと同じように、なぜ彼のようなとんでもない人間がリーダーに選ばれたのかという時代背景を、構造的に探索することができるかもしれない。しかし、彼がどのような行動をとるか、したがって今のアメリカ政府がどのような政策決定をするかについては、トランプ自身に関係する属人的な要素を抜きにしては、おそらく説明も予測も不可能である。その中でもっとも重要な特徴は、彼の行動が子供じみている、ということであろう。たとえば、「言われたら言い返す」、「自分の非を認めない」、そしてみずからのセンテンスを完結できないことに象徴されるように、いろいろなことに気が散って「集中して物事を考えるタイムスパンが極端に短い」などによく表れている。

そのトランプ政権がシリアを攻撃した。このことについて、日本のメディアでは、いろいろな詮索がなされているが、ボクからいわせると、これらは大方間違っているのではないか、と思う。皮肉なことに、これはいつものボクのメディア批判とは逆方向からの批判になるのだが、今回は、あまりに構造的な要因を深読みしようとしすぎているのではないかという気がするのである。たとえば、ロシア(プーチン)と気脈(金脈?)が通じていると思われていたにもかかわらず、その友好国に突然牙を向けたことで、そこにはなにか戦略の転換があったのではないか、とか。あるいは、シリア攻撃は、北朝鮮へもメッセージを送る意図があって行われたのではないか、とか。こういうような解釈をしようとするコメンテーターたちは、トランプがあたかもいままでのリーダーと同じようにものを考え政策を決定する常識人だという立場に立ち、トランプという個性を消したところでこの事件を説明しているように思える。本当に、そういう立場を、彼らは擁護するつもりなのであろうか。

もし、(ボクのように)トランプがユニークな存在であり、したがって(学問的には悔しいけれども)彼はいままでの誰とも似ていない非常識なリーダーであるということを認めるとすると、今回のシリア攻撃は、たんなる思いつき、ないしは気まぐれだったのではないか、ということになる。そう、彼は、なにしろattention spanが短いので、自分の行動の一貫性などということに、一切気を使わない人間なのである。だから、ロシアとのこれまでの経緯などはすっかり忘れて(もしかするとシリアとロシアとの深い関係というのも理解できておらず)、このような行動に出れるのである。ましてや、トランプには、議会と調整することも、国連の安保理で根回しすることも、同盟国と相談することも、彼の行動様式の中にはあり得ない選択でしかない。

アメリカのシリア攻撃の意図をいろいろと詮索したり深読みしようとすること自体、実は、現在のアメリカを見誤ることになりかねないのである。

ゼミ13期生への祝辞

(3月25日追いコンにて)

みなさんの門出に際し、一言申し上げます。

アメリカの大学では、卒業式の時に著名な方に頼んでスピーチをしてもらうことが慣例になっています。それをcommencement speechというんです。中には、ずっと語り継がれるコメンスメントスピーチというのがあって、ステーヴ・ジョブスが2005年にスタンフォードでしたスピーチとか、去年私がこの場で引用させてもらった、David Foster Wallaceという人がある小さな大学で行ったスピーチとか。去年スタンフォード大学で映画監督のKen Burnsが行ったスピーチも、とっても強烈で、実は、今日お話しすることは、かなりそれに影響を受けています。

ま、それはさておき、このCommencement という言葉、これは「始める」とか「始まる」、何かが「開始する」という意味なんですね。いままでの人生は、非常に守られたグリーンハウスの中というか、まだ育ちきっていない段階にある。それが、ようやくその保護された温室状態を出て行く、そういう意味での旅立ち。これから、社会に巣立っていくという、その始まりにあたっての激励の言葉、そういうスピーチなんです。

だから、けっしていわゆるお祝いの言葉、祝辞ではない。卒業しましたね、おめでとう、よくやりました、がんばりましたね、ではない。これから始まりますね、これから一生懸命頑張りなさいねという励ましの言葉、あるいは、こういうことに気をつけなさいね、こうしていくといいですよ、そういうアドバイスに満ちた内容なんです。

そこで、ですね、今日は私も、いくつかアドバイスを並べたいと思います。さきほどのケン・バーンズさんからいろいろとヒントを得ているんですが。

  • Be curious, not cool. カッコつけるのではなく、いつでもいろいろなことに関心をもて。
  • Don’t confuse success with excellence。「成功」と、「優れている」あるいは「極める」、ということを履き違えるな。
  • Travel。旅行しなさい。ひとつのところにいるのではなく、いろいろなところにいきなさい。
  • Free yourselves from the limitations of the binary world. It is just a tool. バイナリーワールドから解放されろ。バイナリーっていうのは、デジタルっていう意味ですね。1か0か。黒か白か。そういう世界のもつ制約から解放されろ。それは、手段であって、目的ではない。
  • The book is still the greatest manmade machine of all – not the car, not the TV, not the smartphone。本を読め。人間の発明した機械でもっとも偉大なものは、本なのであって、車でも、テレビでも、スマホでもない。
  • 科学も芸術も大切にしなさい。なぜ芸術か。They have nothing to do with the actual defense of our country – they just make our country worth defending。芸術では、国も社会も守れない。しかし、芸術こそが、その国や社会を、守る価値のあるものにするのである。
  • 最後これが今日、君たちに一番いいたかったことです。Make babies. 子供を作りなさい。いいですか、子供をつくりなさい。なぜかというと、自分自身以外の誰かのために、いてもたってもいられなくなる、悩む、心配になる、そういう経験をすることになるから。この感覚は、liberating、つまり解放感なんだ、とケン・バーンスはいう。本当にそうなんですね。どういえばいいのか、いつもいつも完璧な人間でいることはできないということを、子供をもつとだれもが思い知らされる、そういう経験だからです。人間として成長するためには、子供を作る必要があるんです。それが自然の摂理なのであって、それに逆らえるなどと思うこと自体、おこがましい。

さて、コメンスメント、始まりという意味ですが、アメリカのコメンスメントスピーチでは、これを機に巣立っていくということばかりが強調されるんですね。しかし、本当は、ここにはもうひとつの裏返しの意味が込められていなければならない。みなさんが巣立っていくということは、私の側からいうと、こちら側の世界に、つまりわれわれすでに巣立っていった人たちの世界に、みなさんが入ってくることを意味する。だから、これからの人生頑張りなさい、という送り出す言葉とともに、もうひとつ、よくいらっしゃいましたね、という歓迎の意味も、このコメンスメントには込めなければならない。だから、今日は、Welcome、ようこそ、ということを申し上げたい。

これからももちろん、かつての師弟関係というそういう間柄というか、経緯はずっと続くことになるわけですが、同じ社会にでた一人の人間どうしとして、引き続きおつきあいしていきましょう。

ですので、今日は、まず、卒業おめでとうございます。そして、これからの人生、頑張りなさい。子供をつくりなさい。さらに、ようこそ、私の世界にいらっしゃいました。これからも末長くよろしくおねがいします。

続・契約説について

昨日、あまり長く書くことはしませんが、といっておきながら、もう一回、今日続編を書くことになりました。ま、いろいろと考えたことがあって、それらをまとめておきたいと思ったからです。

アメリカ革命の過程には、いわゆる契約説のいうところの(原初的)「契約」の思想的重要性を見いだすことができないという考え方も成り立つのではないか、と昨日書いたが、だからといって、アメリカ革命が進む中で、人々が交渉したり合意したりということがなかったかといえば、そういうわけではけっしてない。いや、むしろ、フィラデルフィア憲法会議やその後の憲法承認プロセスは、まさに、人々がそうした国民的コンセンサスを探し求めた過程として捉えるべきであろう。ただ、それは、一般の人々が一般の人々と相互に、もうすこし形式的にいうと、各州を代表する代表者たちが相互に、国の形を決めていくというプロセスであった。そこには、王や独裁者との契約を(一般の人々が)勝ち取ったという構図はない。

しかし、ですね、荒唐無稽なというか、非常に興味深い歴史的な「ねじれ」とでもいうべき事実は、さらにその先に見出されるのです。実は、ヨーロッパに淵源をもつ契約説は、連邦化を進めようとしていた人々の間ではなく、アメリカ連邦国家の誕生に反対した人たち、すなわちジェームズ・ウィルソンやジョージ・メイソンなどアンチフェデラリストの思想に、脈々と生きづいていたと考えられる。なぜなら、彼らこそ、新しく生まれようとしている連邦政府が巨大な権力を握り、人々の権利を奪うことになるのではないか、ということをもっとも先鋭的に危惧した人々であった。だから、彼らは、憲法草案にBill of Rightsが含まれていないことを理由に、草案に反対の主張を堂々と展開した。そして、結局、ハミルトンやマディソンら連邦主義者たちも、その「修正」を受け入れて、ようやくアメリカ合衆国が誕生することになる。

とすると、ここには、明らかに交渉ないし闘争があり、メイソンらがハミルトンらと「契約」をかわして、国家が誕生した、という構図になっているとも捉えられる。しかし、いうまでもなく、当時、ハミルトンやマディソンたちが、(旧来の契約説が想定するような)独裁者や王であったわけではない。メイソンらは、いってみれば、まだ存在もしない、想像上の「巨大な権力」として、ハミルトンたちが企図している連邦国家を恐れたのにすぎないのである。さらにいえば、ハミルトンはともかく、すくなくともマディソンは、連邦国家のもとで権力が巨大化することを非常に警戒しており、その意味では、メイソンとまったく同じ方向を向いていた。

このように、社会契約説をしつこくアメリカ革命に当てはめ、その意義を見出そうとすると、「メイソンとハミルトンとの契約」がアメリカ建国の原初契約であったと捉えることになるが、どうみてもそのような解釈は、そもそもの契約説が描こうとする政治過程の想定には収まりきれない、と結論せざるを得ないのである。

(社会)契約説について

昔から、社会契約説というものについて、教科書的な解説が腑に落ちずにいた。そう、近代以降の国家社会、とくに民主主義社会のあり方を支える重要な思想だといわれている、あのルソーやロックの社会契約説のことです。少し前、ヒュームの原初契約批判を読んで、多少はモヤモヤが晴れたかな、とも思っていたのだが、それでもなんか、まだストンと落ちたという感じはありませんでした。

しかし、ですね、この元旦から読み始めたある本のおかげで、少なくとも、なぜ自分がこれまで社会契約説とうまく付き合ってこれなかったのか、だけは、よくわかったような気がする。考えてみれば、これは政治学者としては、かなり大きなというか、一生の収穫ともいえるような、開眼である。これまでは、「あなた、政治学者として、社会契約説をどう評価してますか」と問われても、きっと自分の立ち位置がわからず、ムニュムニュとごまかしていたと思う。これからは、少なくとも自分の言葉で語り始めることができるのではないか、という気がする。

あまり長く書くことはしませんが、社会契約説が民主主義を支える思想である、という考え方は、結局のところヨーロッパにおける民主化闘争の延長というか継続の上に、アメリカ革命とそれ以降の民主主義の展開を捉える考え方なんですね。イギリスにおいては、マグナカルタ、名誉革命など、実際に王(独裁者)と民(一般の人々)が(暴力や内戦をのりこえて)交渉をして、まさに契約(ないしは合意)をかわして、国の形を決めた。そこでは、権利は契約に由来するという考え方が、理念的にも歴史的事実としても裏付けられる(notwithstanding ヒュームの批判)ことになる。

しかし、アメリカ革命とは、そういう歴史と一線を画す、むしろまったく新しい展開である、という見方も成り立つのではないかと思う。つまり、独立のあと連邦国家として誕生したとき、アメリカでは、権利は憲法に書くことによって、憲法が保障するものである、というまったくあたらしい考え方が生まれたのであり、そこには国民が誰かと交渉して契約したり合意したりするものだ、という発想はなかったのである。この意味では、アメリカの民主主義というのは、われわれが教科書でまなぶ社会契約説とは無関係に、誕生したともいえる。

もっといえば、1789年にアメリカにおいて誕生した立憲主義は、契約ではなく、憲法に書くということで、架空の(抽象的な)契約の存在ないしその重要性を否定する意味をもっていたともいえる。だから、それは実は、社会契約説の延長どころか、社会契約説と真っ向から対立する考え方として捉えられるべきと思うのである。

社会主義にかぶれることのすすめ

ボクは社会主義者ではないが、人生の若い一時期に、そういうイデオロギーにかぶれることは非常によいことだと思っている。それは、人間の自由とか平等とかいった重厚な問題を考える上では、どうしても一度通らなければならない思考体験だと思う。

たとえば、最近気になった、次のようなニュース

「文部科学省は17日までに、私立の小中学校に来春入学する児童・生徒がいる年収590万円未満の世帯に対し授業料を補助する方針を固めた。一定の年収未満の世帯も学費の高い私立校を選択できるようにするのが狙いで、年間1人当たり最大14万円を補助する。2017年度予算概算要求に12億8000万円を盛り込む。」時事通信 8月17日(水)16時4分配信

これ、すごいニュースだと思う。実に、いろいろ、考えさせられる。たとえば、いまここに一生懸命、朝から晩まで、身を粉にして働いている人がいるとする。その人は、子供を私立に行かせたい、イジメとかにあったときのために、私立に行かせるぐらいの蓄えだけはもっておきたい、だから頑張って働こう、と思っているとする。(頑張って働こうという気力のすべてが、自分の子供のためというような人は現実にはありえないが、いまは単純化のためにそう想定する。)すると、この人にとって、上記の政策は、頑張って働こうというインセンティヴを削ぐ政策だ、ということになる。もっといえば、上記の政策は、この人の働く自由そのものを制約している。

しかし、その一方で、そもそも金持ちの子供だけが行ける特別な(イジメの心配のない)学校があるということがあっていいのか、という疑問もうかぶ。そもそもなぜ、「私立の学校」なんてものが許されるのか。少なくとも小学校や中学校の義務教育のあいだは、すべての人が平等に公立で学ぶようにすべきではないのか。これは、なぜ金持ちだけが癌にかかっても助かる確率の高い治療をうけられるのか、とか、なぜ金持ちだけが不妊治療をうけられるのか、という問いにつながる。社会主義のもとでは、すべての人が平等に、病気の治療も子供を産むチャンスも得ることができる。そして、もちろん教育の機会も。

「金持ちだけがXXできる」という、このXXの範囲を残さないと、人間の自由は奪われ、資本主義経済の活力はなくなる。しかし、その範囲をあまりに大きくとると、人間の平等が侵害される。ボクらは、いつもこのハザマで悩み、どうバランスをとるべきかを考えていかなくてはならない。

しかし、新たに提案されている上記の政策に立ち戻れば、どう考えても、この政策は倒錯している。なぜなら、ここにある本当の問題は、イジメがあって、公立にいきたくない、という子供がいることだからである。なぜ、イジメを根絶しようという発想が文部科学省にはないのか。イジメは、ゼロ=トレランスでなくてはならない、と思う。本来この問題は、あのやっかいな自由と平等の間のジレンマとはまったく無縁のところで、その解決が図られなけれならないのである。

石原の「厚化粧」発言について

場合分け(1):「石原は直情型の人間で、いつでもどこでもいいたい放題に発言する」という前提を置く。発言は多くの人の感情を刺激し、とくに女性票を遠ざけ、逆に小池陣営を大いに援護してしまっているので、これは大失敗ということになる。

場合分け(2)「石原は案外理性的な人間で、自分の発言がどのような帰結を生むかをちゃんと心得て行動している」という前提を置く。すると、本当は石原は小池陣営と裏で繋がっていて、「あんたんとこに票が行くようにするからね」と恩を売っている、もしくは恩を売るまではいかないにしても、都連の会長である息子に頭があがらないようにしている、ということになる。いずれにせよ、この場合は、真剣に暴言を演じて、多くの人々に「なんてとんでもないことをいうのか」と思わせなければ小池に同情がいかないのであるから、発言は暴発でもなんでもなく、明確な目的をもって行われたということになる。

さて、この二つのシナリオはちょっと考えればどちらも思いつくが、実はどちらも間違っているのではないかと思う。まず、(1)のシナリオにあるような「放言癖のある石原」像は、一般的には定着しているが、あそこまで(キャリアの上では)成功した政治家が、自分の発言の帰結をまったく考慮しないで、右から左へいいたいことをいう、ということはボクにはちょっと考えられない。政治家というのは、かならず政治的損得計算をどこかでしていると思う。しかし、その一方で、(2)は、やや想定が行き過ぎているのはないか、と思う。もし石原と小池陣営が事前につながっているのであれば、どこかでしらじらしさがにじみ出てきて、演技であることがばれてしまうのではないか、と思う。

そこで、もうひとつの可能性を考える。場合分け(3):「石原は不確実性が高いなかでは、リスクヘッジ型の行動をとる」という前提を置く。たしかに今の時点では優勢だが、小池が勝つとは限らない。自分の発言で小池が勝てば(そして、小池に女性票を誘導してやっただろと言えるようになれば)、結果的には上の(2)と同じで、ほら俺(たち親子)に恩があるだろ、とあとでいえることになる。そして、万が一、増田が勝ったとしても、自分は一生懸命(暴言までして)あんたを助けたんだ、ということができる。(3)が正しいとすると、石原と小池は事前につながっている必要がない、というか、つながっていてはならない。石原にしてみれば、自分の真の選好を隠すことが目的なのであって、石原と小池はお互い、意図の読み合いをしていることになる。実際、小池は(そして増田も)「なんであんな自分を助けるような発言をしたんだろう」(増田にとってみれば「なんであんな余計なことをいってくれたんだろう」)と考え込んでいる、というのが真実に近いのではないか。石原は、この第三のシナリオに沿ったゲームをプレイしているのではないか、というのがボクの推理である。

参院選についての雑感(備忘録のようなもの)

・日経「経済教室」にも書いたことだが、本来、政権をきめる衆院選でないぶん、参院選は野党に有利なはずである。ところが、今回は、政権に対する「評価の選挙」ではなく、自公対民共の「選択の選挙」だと位置付けられた。安倍首相(およびその側近)の徹底した演出がうまかったこともあるが、それに対抗するレトリックや戦略のない民進党は選挙キャンペーンの実力という意味ではるかに劣っていた。その差がそのまま結果に表れていた。

・共産党が候補者を出さなかったことが、民進党(ないし野党統一)候補に有利に働いたかどうかが話題になっている。しかし、純粋に理論的な仮定として有権者が「戦略投票」をすると想定すると、共産党の候補の有無は結果に影響を及ぼすはずがない。共産党との連携・共闘が、それ以外のどのような外部効果を生んだかが分析されるべきことであり、ボクの直感ではそれは、おそらくは「負」の効果の方が大きかったのではないかという気がする。

・安倍首相が、憲法改正を選挙期間中まったく語らず、しかし終わった途端に「これから議論していきましょう」といっていることに、批判がある。しかし、野党の側は、選挙期間中、まさにこうした可能性を取り上げて、「安倍さんは選挙が終わったあと、憲法改正へ進む」と有権者に訴えていたのだから、この批判はおかしい。

・18歳まで選挙権が引き下げられたことについて、選挙前にさまざまなメディアや雑誌媒体が、「18歳有権者へのメッセージ」なるものを特集し、「選挙に行け」キャンペーンを張っていた。しかし、こうした「上から目線」の特集に、ボクはおおきな違和感を覚えた。18歳の人たちに選挙権を与えると決めたのだから、彼らはすでに一人前として扱われるべきである。なぜ、彼らだけが選挙についての教育なり啓蒙をうけなければならないと決めつけるのか。80歳以上の高齢者にむかって、「あなたたちすこし選挙に行かないでください」なんてメッセージを送ることがありえないのと同じである。

・前項と関わるが、こうした特集は、ただたんに「選挙にいこうよ」と強調し、それがあたかも教育的なメッセージ、すなわち、非政治的なメッセージだから許されると勘違いしている。ここには、政治的メッセージをおくるのは控えよう、なぜなら政治とはうさんくさいもの、というような暗黙の前提があるように思える。本来おくるべきは、政治を語ることは悪いことではない、というメッセージなのである。

・出口調査の結果をみると、この18−19歳の有権者が自民党に投票する率が高い、ということが話題になっていた。アメリカの友人に話すと、アメリカの大学生はみんなバーニー・サンダース、つまりリベラルな候補者を応援しているので、このコントラストが面白い、といっていた。実は、ボクは日本の若者の中にもリベラル派の方が多いと思っているのであるが、おそらく彼らは日本の既存の(リベラルを代表する)政党に幻滅しているだけではないかという気がする。別にこのことについてボクには根拠があるわけではないが、しかし日本の若者が保守回帰しているという反対の議論にも、実証的にはほとんど根拠らしい根拠は提出されていないと思う。

連載3 グリーン券から考える正義について

席が空いているか空いてないかわからないのに、グリーン券を購入するのは非合理的であり、実際に乗り込んで席が空いていることを確認してから購入する方が合理的である、という命題は、ダブルプライシングがなければ、文句なく成立する。しかし、前者の方が安く後者の方が高いという条件のもとでは、上記の命題とはまったく逆方向に、当然のことながら、高い値段を払うのは非合理的で、ディスカウントの低額を払った方が合理的であるという、もう一つの命題がうまれる。したがって、この時点で、JR東日本の普通列車のグリーン券の価格設定は、合理性と非合理性とが打ち消し合っている奇妙なものになっている。いいかえれば、それは合理的な意思決定をしたいと思ってもできない、という意味で、われわれに不自由を強いるものとなっている。

実は、ここにさらに第三の要素が介入する。事前に(安い)グリーン券を求めるかどうかの意思決定は、席が空いているか空いていないかという事象についてのリスク態度によって影響される。いってみれば、楽観的な人(リスクが少ないと思う人)、つまり「きっと空いているだろう」と思う人と、悲観的な人(リスクが多いと思う人)、つまり「もしかすると空いてないかもしれない」と思う人では、買う買わないの判断に大きな差が出る。いうまでもなく、楽観的な人と比べて、悲観的な人は、事前にグリーン券を購入しない、という判断に傾きやすいはずである。ということは、事前に買うと安いというグリーン券の価格設定は、リスクに関して楽観的な人に有利に、悲観的な人に不利に、できた制度になっている、ということになる。

さて、では、どのような人々がリスクに関して楽観的で、どのような人たちが悲観的なのか。これは、生まれつきの性格とか育ちによって決まるもので、おそらく、その人本人がコントロールできない生来の資質であると思う。ボクの感覚からすると、自らの選択で事前にグリーン券を買うか買わないかを決め、それによって若干損を被ることになるかもしれないとしても、それはそれでしょうがないと思える。しかし、リスク態度とは、人種とか、肌の色とか、メガネをかけなければならないほど視力が悪いかどうかとか、足が短いかどうか、ということと同じように、人間を差別する基準となってはいけない要素のひとつではないか、と思うのである。

すると、ですね、現行のグリーン券の価格設定は、憲法違反の疑いがでてくるのです。そうでしょ、JR東日本さん、憲法の14条を読んだことがありますか。「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」。あんたたちは、リスク悲観者を不当に差別しているんじゃないですか。

あはは。こんなことを言うと、いやいや、憲法には「身分」または「門地」と書いてあるけど、人々のもつ「リスク態度」とは書いてないよ、という反論が聞こえてきそうである。いや、しかし、ここは「身分」および「門地」をできる限り拡大解釈して、「生来の、自分ではコントロールの及ばない要素」全般と読み替えるべきではないでしょうか。(←ちょっと無理筋、かな)

いや、しかしですね、こんな問題よりもなによりも、そもそもなんでグリーン車などというもの、つまり金持ちが乗れて、金持ちじゃない人が乗れない、というそんな車両自体が許されるのか、という問題も、実はここにはあるのです。これこそ、そもそも憲法14条違反ではないか、という議論も成り立つのではないかと思うのであるが、これについてはまた次回。

連載2 グリーン券から考える正義について

そもそも、JR東日本の普通列車のグリーン券によって、われわれは何を購入しているのか、それは明確でない。新幹線や成田エクスプレスのような特急列車のグリーン券と違い、普通列車では席を指定して乗車することはできない。なので、たとえば東海道線のグリーン車に事前にスイカ・パスモで購入して乗り込んだとしても、席があいてないこともありうる。ところが、席がなくても、グリーン車に乗車すること自体に対して、グリーン券が要求される。だから、普通列車のグリーン券を購入するとは、グリーン車で席に座ることを確約するものではなく、グリーン車という特別な空間にいてもよいという権利を買うということを意味する、というのが正しい。

席も与えられない(かもしれない)のに、対価を要求すること自体、不公平だという議論も成り立つが、ここではその議論はとらない。たしかに、グリーン車は、通常、普通車に比べて、空いている。なので、その特別な空間にいてもよい、という権利にたいして対価をもとめるのは、それなりに正当化されうるとも考えられるからである。

しかし、そうはいっても、この論理がまかり通るなら、いくつかおかしいことになりはしないか。たとえば帰省ラッシュで激混みの新幹線で、自由席がもう乗れないくらい満員だった場合、自由券しかもっていない人が指定席の車両に立つ、ということが起こっているではないか。おそらく、指定席車両の方が、自由席車両よりも空いている。とすると、まさに上と同じ理由から、そのような空間にいるという権利にたいしては、同じように、なんらかの余分な対価を本来もとめるべきではないのか。

しかし、新幹線の自由席がいかに非常に混んでいても、客がグリーン車に車両にいって立つ、ということはないような気がする。いったい、このことはどうやって、区別され、正当化されうるのか。ますます、よくわからない。

話を、普通列車にもどすと、われわれにしてみれば、座れるか座れないかが確実にはわからないのだから、実際に乗ってみて、席が空いているのを見届けてからグリーン券を購入しよう、と考えるのが合理的な意思決定の仕方であるように思える。前もって、グリーン券を購入して乗り込み、座れないことが判明した時、普通車に移ってグリーン券をあとで払い戻してもらうこともできるのであるが、その手続きは煩雑だし、実は手数料も取られる。ならば、最初から、グリーン券を購入してから乗る、というのは非合理的な意思決定である、ということになろう。

しかし、ここに、あの事前購入の方が安いというダブルプライシングシステムが立ちはだかっているのである。それは、まさに、合理的な意思決定ではなく、非合理的な意思決定をせよ、とわれわれに迫る。

いや、正確にいうと、この二者択一の意思決定は、もっと複雑なのであるが、この点については、また次回ということに。

連載1 グリーン券から考える正義について

正義とか、公平性とか、そういうテーマについて、引退する前までに、一冊は本を書きたいと、ずっと思ってきた。この連載が、そうしたものに結実してくれればと願い、少し書き始めてみようかと思う。

正義とか公平性というと、大げさに聞こえるが、ボクは、こうした話は、別にどこから始めてもよいだろうと思っている(なんかサンデルみたい)。で、ボクにとって、それはたまたま、JRのグリーン券だった、ということにすぎない。(前回のブログでも紹介した通り、このことについてはすでにJR東日本に問い合わせをし、その回答も頂いている。この回答も、いずれじっくりと分析してみたい。)

さて、まず、なんのことやら、さっぱりわからない人のために、基礎情報を書き出しておくと、JR東日本では、普通列車にグリーン車というものがある。新幹線とか踊り子号とかの特急列車にではなく、通勤や通学に使う東海道線、横須賀線、湘南新宿ラインなどに、グリーン車があるのである。そして、このグリーン車に乗るためには、グリーン券を買わなければならない。

いまでは、このグリーン券は、スイカやパスモを使って、あらかじめ列車に乗る前に購入しておくことができる。席の頭上に、それをかざすと赤色ランプから緑色ランプに変わる装置があって、それによって席に座っている人が、ちゃんとグリーン券を購入しているかどうかが一目でわかるシステムになっている。

しかし、事前購入することができずに(たとえば発車ギリギリで)グリーン車に飛び乗ったとしても、もし席が空いていれば、グリーン券は列車内でも購入できることになっている。そういう場合は、当然のことながらランプが赤色表示になっているので、アテンダントの人がやってきて料金を払ってください、という展開になる。ただし、その場合は、割高に料金が設定されている。その時、ブーブー文句をいっても始まらない。車内には、いたるところに、中で買ったら、事前に買うよりも割高になりますよ、という表示が(まさにそうした事態になった時に、いや知りませんでした、と言わせないために)いたるところにある。

さて、ボクの疑問は、なぜこのようなダブルスタンダードならぬ、ダブルプライシングが許されるのか、いや、許されるなどというと若干上から目線なので、なぜそれが正当化されうるのか、というものである。

事前に買った人も、列車にのってから買った人も、受けるサービスはまったく同じはずではないか。それは、同じグリーン車にのって、同じ距離だけを移動するというサービスである。なぜ同じサービスに対して、異なる対価を求めることが許されるのか、じゃなかった、正当化されるのか。

ちなみに、新幹線のグリーン車にのるために、グリーン券を買うとして、1日前にそれを買うのと、当日それを買うのとでは、価格は同じである(と思う)。

なぜ、同じグリーン券なのに、東海道線や横須賀線では、事前に買うとディスカウントがついてくるのだろう。そして、そのことをなぜ人は正義にかなっていない、不公平だ、として文句をいわないのだろう。ボクの話は、ここからスタートするのである。(続く)