Missing Translationあるいは外務省の非常識について

アメリカから一週間ほど日本を訪れている共同研究者との作業中、先だって国会を通った安全保障関連法の英語版を彼が読みたいということになった。それで、いろいろなキーワードで検索してみるが、いくら探してもネットではでてこない。この法律の背景説明とか、要約とか、それについて書かれた新聞記事は山ほどでてくるのに、肝心の法律そのものの訳が見つからないのである。

しょうがないので、ボクが外務省に電話して聞いてみることになった。すると電話口の女性は「ちょっとお待ち下さい」という。しばらくして「お待たせしました、それはホームページの・・・」というので、ボクは「いやいや、そこにあるのは概要でしかないですよ、法律そのものは載っていないですよ」と、こちらから教えてあげる。(このへんで、もうすでにイライラ。)

さらにしばらく待たされた挙句、彼女は「いま、担当の者に確かめたんですが、翻訳はまだ作っていませんとのことです」。はあ?「じゃあ、どうやって安倍さんは、オバマさんに説明したんですか?」「それは、概要をつかってですね・・・」、「あのね、そんなことあるわけないでしょ。法律の訳文を、アメリカ政府に見せないわけないでしょ」、「・・・」、「すみませんけど、その担当者に代わってくれませんか」。

電話にでた男性の担当者は、「作ろうとしてるんですが、まだ作れてないんです」という言い訳をする。「あ、そうなんですか」。この時点で、もう呆れ果て、共同研究者との時間がなくなるのがもったいないと思って電話を切った。

あのねえ、外務省さん、英訳ぐらいつくって公開するのが常識ってもんでしょ。いや、本当は翻訳がないわけないんだよね。アメリカに説明するための非公式の訳は、作ったんでしょ、ちゃんと。そこまで非常識っていうか、無能じゃないよね、いくらあんたたちだってさ。

ただ、いまは、ボクらのような問い合わせに、後になって日米間でニュアンスが違うなどと、つっこまれないように、公開するのを臆病になっているだけなんだよね。

いったい、誰をみて仕事してんだろうね、あんたたち。翻訳がありませんという非常識が主権者に対してまかり通ると思っている、二重の意味での非常識だよ、あんたたち。

再び、死について

この話題については、もう随分前のブログ(2007年02月26日)でも取り上げたことがあるのだが、再び、ちょっと考えることが最近あったので、書いてみる。

実は、妻の連れ子であるモモ(ミニチュアダックス)が死んで、一年がたった。

いま2歳半になる息子は、生前モモと遊んだことがあり、多分(遊んでいるところがビデオに残ったりもしているので)その記憶もある。すくなくとも、モモといえば、うちにいた犬である、ということを認識している。

ボクは、モモの話題になると、「モモは死んじゃったの」と息子に説明をしていた。しかし、もちろん「死」という概念が、2歳半の子供に伝わるわけはない。そこで、例によって、というか、まあ当たり前のように、「モモは遠くにいったんだよ」とか、「いま、お空でみんなのこと、見てるんだよ」とかいう説明をしていたのであった。

さて、そのモモの遺骨を、一年間はずっと家においていたのであるが、一周忌も迎えたので、ある場所に散骨しよう、ということになった。で、妻とボクと息子は、ある朝、早く起きて、よく連れて行った散歩コースの海沿いで散骨をした。なぜ、そこにしたか、というと、いまでもボクらはそのあたりをよく散歩するので、モモがさびしくないように、という意味をこめてであった。で、お骨をまきながら、「モモは、ここに来れば会えるからね」と息子に説明した。なむ、なむ。

しばらくたって、保育園の帰りに息子と散歩していて、その近くに差し掛かると、散骨した日のことを思い出したのか、ボクに「モモちゃん、どこにいる?」とたずねる。間違いなく、息子は、骨をまいた地点のことを念頭において、その質問をしたのであった。

その時、ボクは混乱した。なんと説明をすれば、いいのであろうか。たしかに散骨したのはその地点であるけれども、そこにいまモモが「いる」わけではない。その地点を散骨の場所として選んだのは、まさにそこにずっとモモがいるというふうにわれわれ自身が思い込むためではあるが、「思い込む」などという上等な思考作業を、2歳半の息子ができるわけはない。この時、なんと説明をすることが正しいのか ==これは正確性という意味ではなく、どちらかというと「正義にかなっている」という意味での正しさである== 実際のところ、わからなくなっていた。苦し紛れに、「モモはね、ボクらの心の中にいるんだよ」といってみる。しかし、息子にしてみれば「ここにくれば会える」といわれているので、もちろんそれでは通じるわけがない。

われわれは、死という概念をうまく説明することができない。これは非常に単純だが、まぎれもない事実である。

もちろん、息子が大人として成長していけば、死という概念をわかるようになる、というふうに考えることもできる。しかし、本当にそうだろうか。われわれ大人は、「死とは何か」をわかったふりができるだけではないのだろうか。あの人は死んだんだと「思い込む」こと、大人はその「思い込み」の術を獲得しただけに過ぎず、死についての理解の深さは、大人もボクの息子も大差がないのではないか。そんな気がするのである。

とんかつ屋の業界言葉について

ランチにとんかつ屋に入り、「ヒレカツ定食」と注文する。「3番さーん、ヒトクチカツ」。

「?」

瞬間、ひたーっと不安がよぎる。あの、ボクは、ヒレカツを注文したんですけど。「一口カツ定食」という項目は、ボクが見た昼のメニューには、たしかなかったんですけど。

ただ、見たといってもじっくり確かめたわけではないので、もしかしたら「一口カツ定食」というのもメニューにあったのかもしれない。それとも、この店では、<ヒレカツ>のことを<ヒトクチカツ>というのだろうか。

こんな時、みなさんはどうしますか。注文を取りに来たひとに、もういちど「あの、ヒトクチカツではなく、ヒレカツをたのんだんですが・・・」と、わざわざ確認しますか。

いや、しかし、まてよ、とんかつ屋業界では、ヒレカツ=一口カツという等号が成り立っているのかもしれない。あるいは、業界でなくても、とんかつ屋に入る客はみんな、ランチ時ヒレカツ定食のことを、別名一口カツというというのを知っているのかもしれない。知らないのは、ボクだけなのかもしれない。だとすると、わざわざ確認しようものなら、「あんた、そんなことも知らないの」と、まわりの笑いものになってしまうかもしれない・・・。

というわけで、ボクは真実を確認することもできず、ただ待つことになりました。不安は募るばかりで、落ち着いて本も読めなければ、新聞も読めやしない。

どきどき。いらいら。はらはら。どきどき。

そして、そうこうしながらも、いろいろ思考は続くわけです。そもそも「一口」というのは、サイズの問題である。しかし「ヒレ」というのは、肉の種類、部位の種類の問題である。だから、この二つを混同することはゆるされない。それはわれわれ学者からいわせると、カテゴリー誤謬というものである。それが証拠に、原理上、一口サイズのロースカツだって、存在しうるはずではないか。しかるに、仮に業界の用語として、ヒレカツ=一口カツという等号が成り立っていたとしても、それは妥当ではない。それは業界の方が間違っているのであって、ボクの方が正しい。

・・・などと思考がめぐっていると、運ばれてきました。「はい、ヒレカツ定食です。」

「?」

なんだよー。さっき、あんた、キッチンにむかって「ヒトクチカツ」っていっていませんでした?なあーんだ、なああーんだよー、心配させやがって。しかし、おかしいでしょ? なんか違う呼び名を使い分ける必要あんの? ボクがたのんだの以外に、ヒレカツ定食と間違ってしまうような項目があんの、昼のメニューに? あのさぁ、こっちは落ち着いて何もできなかったんだよ、出てくるまで。わかる? あんたの一言、客を不安におとしいれたんですよ。客を不安にさせるなんて、サービス業として、おかしいんじゃないの、えっ?!・・・。

などという、クレームの言葉が次から次へと浮かんできましたが、もちろん全部のみこみました。そして、おいしくいただきました。

ちなみに、三切れのヒレカツがそれぞれ半分に切ってあって、とても食べよい一口サイズになっていました。

人生のリズムについて

面白いもので、人生にはリズムというか、波というか、そういうものがある。

で、面白いもので、そういうリズムとか、波とかいうものは、一見、ただたんに偶然が重なって起こるかのようにも見えるのだが、実は、そういうものが起こるのにはそれなりの理由が存在するように思える。

たとえば、しばらくなかったなあ、と思っていたジャーナルの査読依頼が、立て続けにいくつか入ってくることがある。あるいは、在京の外国の大使館から、日本の情勢についての聞き取り依頼が、短いあいだにいくつも来るということがある。後者については、選挙があったり、この前の安保法制の成立というような大きな事件があったりすれば、それについての意見を聴きたいということだろうから、ここには当然、単なる偶然ではない理由が存在する。前者の査読依頼が重なることについては、こちらはどうみても偶然のようにもみえるが、しかしそれでも、案外と学者の世界というのは狭いもので、なんらかのきっかけでいろいろなジャーナルの編集をしている人たちのあいだの私的な会話にボクの名前が登ることがあると、「ああ、そうそう、そんな人、いたっけ」と思い出してもらって、査読が同時に舞い込んでくるということもあるのではないか、と思っている。

さて、こうした例は、どちらかというと人生の短期的なリズムである。しかし、それとは別に、もうすこし長い周期の波のようなものもある。

たとえば、ボクはかつては(NHKの国際放送を除いて)ほとんどテレビに出たことがなかったのであるが、2009年から始まったBSフジのプライムニュースという番組に、当初ブレーンキャスターという肩書きのもとで、結構頻繁に出演させていただいた。その後、2012年からはじまった同じくBSフジのコンパスという番組でもオピニオンアナリストというタイトルで多く出演した。ところが、この後者は、キャスターであった西尾由佳理さんが昼の番組に抜擢されたこともあり、一年足らずで終了した。ちょうどその頃、プライムニュースの方も番組の作り方が変わり、ブレーンキャスターという役を設けないことになって、ボクの出演も少なくなった。というわけで、まさに波がきて、波が去っていった、という感じであった。

しかし、ちょうど、そのテレビ出演の波が終わる頃、今度は日本学術振興会の学術システム研究センターというところから、プログラムオフィサー(PO)になってほしいという依頼がきた。同じころ、ほかにも、いくつか(名前はいえないが)公的な機関の役職を引き受けることになり、そうか、今度はこうした波がボクの人生にいま来ているんだ、と自覚するようになった。こうしたやや長い周期の人生の波は、ボクの年齢とか経歴と無関係ではなく、やはりテレビに呼ばれるにはそれなりの理由、公的な役職につくにはそれなりの理由があるように思える。ちなみに、ボクはテレビに出させてもらったことからも、学振でPOを務めたことからも、本当に多くのことを学ばせてもらったと思っていて、人生を豊かにする機会を得たことに感謝しきりである。

さて、学振でのPOの任期は3年で、来年の3月で終えることになる。次に、どのような人生の波がやってくるのか。あるいは、ボクの人生の波は、もう絶えてしまったのか。いや、きっと新しい波が訪れるにちがいないと、いまから心をわくわくさせながら、それを待っているのである。

ある日についての記憶

ボクの記憶によれば、祖父とボクは横浜駅の根岸線のホームで待ち合わせていた。とはいっても、もう40年以上も前のことなので、それは正確ではないかもしれない。もしかしたら、東海道線のホームだったかもしれない。

その日、祖父は、茨城の方で親戚一同が集まる大きな法事に参列することになっていた。しかし、75を過ぎた祖父を、そんな遠くまで一人で行かせて大丈夫かと、ボクの母や叔母たちが心配した。で、家族会議が開かれ、なかなか結論が出ない中、ちょうど中学生になったばかりのボクが、「じゃあ、ボクが付き添いで行こうか」と提案したら、それはちょうどいい、ということになった。それで、磯子から乗ってくる祖父とホームで待ち合わせ、茨城のとてつもない田舎(とボクには思えた)まで、二人で行くことになったのである。

祖父とボクが、二人だけで旅行(のようなもの)をしたのは、後にも先にも、この時だけであった。いまでは、その道中に、祖父と何を話したのか、どうやって過ごしたのかをまったく覚えていない。

でも、この日のことは、よく思い出す。というか、この日のことが、いまでも気になって仕方がない。それがなぜなのかは、よくわからない。

よく覚えているのは、ボクが祖父の荷物を「重いから持ちましょうか」となんども言ったのに、「いいから、いいから」と断られたことである。ボクは、荷物持ちの役を断られたら、自分がなんのために付き添いで来ているのかわからなくなるので、結構しつこく聞いた。でも、祖父は潔癖なまでに自分のことは自分でする性格で、頑として受け入れなかった。

法要が執り行われる大きな家に着いてからの記憶も、定かではない。ただ、植木がたくさんある前庭があり、広大な畑が後ろにあり、というように、ボクがそれまでに見たこともないような田舎の家だったのを覚えている。

法事が始まると、ボクはすることがなくなった。そこには、地元から同じくその法事に参加している親たちに連れられてきていた子供たちがたくさんいた。彼らは、ふだんからの遊び仲間のようだった。しかし、遠くから来たボクは、なかなかその中に入っていけない。また、ちょうど中学生になったばかりということもあって、多分初対面の人たちと一緒に遊ぶこと自体が恥ずかしい、という気が働いたのかもしれない。

しかし、ボクは結局、その子供たちと一緒になって、駆けずり回って遊ぶことになった。そして、本当に、本当に、楽しかった、ということは記憶に残っている。

祖父と一緒に帰る迎えのタクシーが来た時、その子供たちがみんな笑顔で、大きく手をふってくれて、「また来てねぇ」、「また遊ぼうねぇ」と、ボクに向かっていってくれた。ボクも「またねぇ」と、大きな返事を返した。ただ、そうはいいながらも、「ここにまた来ることはない」、「この子たちとこれから会うことも多分一生ない」と思っていたことを、ボクは強烈に覚えているのである。