社会主義にかぶれることのすすめ

ボクは社会主義者ではないが、人生の若い一時期に、そういうイデオロギーにかぶれることは非常によいことだと思っている。それは、人間の自由とか平等とかいった重厚な問題を考える上では、どうしても一度通らなければならない思考体験だと思う。

たとえば、最近気になった、次のようなニュース

「文部科学省は17日までに、私立の小中学校に来春入学する児童・生徒がいる年収590万円未満の世帯に対し授業料を補助する方針を固めた。一定の年収未満の世帯も学費の高い私立校を選択できるようにするのが狙いで、年間1人当たり最大14万円を補助する。2017年度予算概算要求に12億8000万円を盛り込む。」時事通信 8月17日(水)16時4分配信

これ、すごいニュースだと思う。実に、いろいろ、考えさせられる。たとえば、いまここに一生懸命、朝から晩まで、身を粉にして働いている人がいるとする。その人は、子供を私立に行かせたい、イジメとかにあったときのために、私立に行かせるぐらいの蓄えだけはもっておきたい、だから頑張って働こう、と思っているとする。(頑張って働こうという気力のすべてが、自分の子供のためというような人は現実にはありえないが、いまは単純化のためにそう想定する。)すると、この人にとって、上記の政策は、頑張って働こうというインセンティヴを削ぐ政策だ、ということになる。もっといえば、上記の政策は、この人の働く自由そのものを制約している。

しかし、その一方で、そもそも金持ちの子供だけが行ける特別な(イジメの心配のない)学校があるということがあっていいのか、という疑問もうかぶ。そもそもなぜ、「私立の学校」なんてものが許されるのか。少なくとも小学校や中学校の義務教育のあいだは、すべての人が平等に公立で学ぶようにすべきではないのか。これは、なぜ金持ちだけが癌にかかっても助かる確率の高い治療をうけられるのか、とか、なぜ金持ちだけが不妊治療をうけられるのか、という問いにつながる。社会主義のもとでは、すべての人が平等に、病気の治療も子供を産むチャンスも得ることができる。そして、もちろん教育の機会も。

「金持ちだけがXXできる」という、このXXの範囲を残さないと、人間の自由は奪われ、資本主義経済の活力はなくなる。しかし、その範囲をあまりに大きくとると、人間の平等が侵害される。ボクらは、いつもこのハザマで悩み、どうバランスをとるべきかを考えていかなくてはならない。

しかし、新たに提案されている上記の政策に立ち戻れば、どう考えても、この政策は倒錯している。なぜなら、ここにある本当の問題は、イジメがあって、公立にいきたくない、という子供がいることだからである。なぜ、イジメを根絶しようという発想が文部科学省にはないのか。イジメは、ゼロ=トレランスでなくてはならない、と思う。本来この問題は、あのやっかいな自由と平等の間のジレンマとはまったく無縁のところで、その解決が図られなけれならないのである。