ゼミ12期生への祝辞

(3月25日、追いコンにて)

今日は、酔っ払うとおもって、紙にかいてきましたので、それを読ませていただきます。

早稲田大学政治経済学部、河野ゼミ、12期のみなさん、卒業おめでとうございます。みなさんの門出に際し、一言祝辞を申し上げます。

次のような、寓話を、聞いたことがあるでしょうか。ある日、二匹の若い魚がならんで泳いでいると、むこうからやってくる年配の魚に出会いました。その年配の魚は、二匹にむかって、いいます。

「やあ、君たち。今日の水の具合は、どうだい? 気分いいかい?」

二匹の若い魚たちは、通り過ぎて、お互いの顔を見合わせます。で、一匹がもう一匹に向かって言うのです。

「水? 水ってなんのことだ?」

こんな話をするのは、私が年配のかしこい魚で、あなたたちがまだものをよく知らない若い魚だ、などという構図を確認しようとするためではありません。そんなことをいったら、失礼ですね。みなさんは、早稲田の政経という、日本でも難関と考えられている学部に入学し、4年間を過ごしました。そして、いまそこでの教育を終え、羽ばたいていくわけですからね。

では、この寓話のポイントは、何か。それは、自分にとって自明なもの、本当に自分にとって毎日毎日をすごす環境、そういうことには、なかなか気づかないものである。そういうメッセージだと思うんですね。

私は、常々、大学というところは、知識を学ぶところではない、といってきました。知識というのは、つきつめれば、情報にすぎない。知識や情報を増やしたいだけなら、大学なんていく必要はない。いまでは、ウィキペディアという非常に便利なものがある。あるいは、もっと一般に、ネットにありとあらゆる情報が溢れかえっている。高い授業料を払って大学にいかなくても、情報や知識を手にいれることはできる。

私が、みなさんに強調したことは、ものの考え方を学ぶ、ということでした。理論とかモデルとかいうものは、そのためにある。卒論の指導の際に、口を酸っぱくしていったのは、いったいこの卒論の内容は、どこにオリジナリティがあるのか、何があたらしい切り口なのか、いままで見えなかったことをどのようにみせてくれるのか、そういうことでした。

知識の豊富な人はいっぱいいる。知識を得ることは、だれでもできる。しかし、ものを考える力をもつことには、トレーニングが必要である。だから、計画を突き返し、プレゼンにダメだしをし、宿題を出してやり直してこい、といって、みなさんの考える力を鍛えたつもりです。

しかし、ですね。実は、大学で学ぶべきこと、本当に大学にいって身につけるべきことは、「考える力」でさえも、ないと思うんです。もちろん、知識でもない。知識が第一歩、考える力が第2歩、だとすると、では、第3歩目はなにか。

これが、さっきの寓話と関係しているのです。知識を得れば得るほど、あるいはものを考えられるようになればなるほど、見失うものも多いのではないか。あまりに多くのことを知り、あまりに多くのことを考えることができるようになると、その自分の知識はどうやって得たのか、自分の考え自体がどこからくるのかを忘れてしまうという可能性がある。

リベラルエデュケーションとして、つまり別に専門家になるわけでもない人が通う大学で学ぶこととして、本当に、本当に重要なことは、こうした可能性にたいして謙虚になる態度ではないかと思うのです。自分がものを知っている、あるいは自分がものを考えらえるようになっている、その土台というか、テンプレートのようなものがそこにある。もしかすると、そのテンプレートは、人とは異なったテンプレードかもしれない。だから、ある人と出会って、どうしても友達になれない、コミュニケーションができない、うまく付き合えない、そう思うことがある。きっと、これからみなさんは、社会にでていくと、大学という同質の人たちに囲まれた時とちがって、まったく異質な人々、多様な人々がいる世界にはいっていくので、そういう経験を多くすることになると思う。しかし、そうしたとき、あなたは、あなた自身のテンプレートがどこにあり、それがどのようなものなのかを自覚する、非常に良い機会だと思わなければならない。

あたりを見回し、「これは、水だ」、「これは、水だ」、「うん、そうだ、これは水だ」、「ここには、水っていうものがあるんじゃないか」。

そのように、いま自分が当たり前だとおもって見過ごしているものを発見すべく自問すること、自問することを意識すること、そして自問することを持続していく態度を身につけていくこと、これが大学の教育の中でなにより大事なのです。

この二年間、時があまりに早く過ぎていき、みなさんにこのメッセージを十分伝えられなかったので、これを今日、どうしても言いたいと思ってきました。

ところで、今日したこの話、これは私のオリジナルではありません。パクリです(笑)。実は、この話は、デーヴィッド・フォスター・ウォレスという詩人が、ある大学での卒業式でしたスピーチ、コメンスメントスピーチの内容です。ですが、みなさん、このスピーチのことを知っていましたか。これは、アメリカのこうしたスピーチの歴代ベスト10に選ばれる、とても有名なスピーチなのです。このこと自体、みなさんが知らず知らずのうちに拠って立っているテンプレートが及ばない世界が広大に存在している、ということを象徴しているのではないでしょうか。

みなさん、そのことを謙虚に忘れないで、社会に羽ばたいていってください。

現下の政治状況についての備忘録

最近、あまりに忙しくて、現実政治の動向を追う余裕がなかったのだが、ある理由により、自分の考えをまとめる必要ができたので、論点をまとめてみる。

  • 安倍晋三首相の任期は6年、すなわち2018年9月まで。仮に(党のルールを変えて)任期延長が行われないとすると(おそらく、延長はないものと考えてよいと思うが)、この間に行われる参議院議員選挙は今年の夏の選挙が最後である。
  • ということは、もし本当に憲法改正をしようとするのであれば、この参院選がもっとも重要な選挙だ、ということになる。衆院は解散できるが、参院は解散できない。
  • 安保法制を強行したことによって、一時的にではあるにせよ、安倍政権は大きく支持率を低下させた。では、なぜそこまでして、安保法制を強行したのか、という疑問が浮かぶ。
  • 安倍は、支持率低下が一時的で済むということを、あらかじめ予見していたのか。確かに、野党がここまでどうしようもなく体たらくな状況はない、ということからすれば、一時的に政治的コストを払うことをためらわなかった、ということも考えられる。実際、低下した支持率は、すでに戻ってきている。しかし、たとえコストを支払ったとしても、安倍にはより大きく得るものがあったのではないか、という可能性も否定できない。端的にいえば、そこには、安保法制が他のどのような政策課題よりも脚光をあびることにより、野党は反安保法制でまとまる戦略をとらざるを得ない、という読みがあったのではないか。民主と共産との連携を、安倍はむしろ「術中にはまった」とでもいわんばかりに、喜んでいるように思える。
  • 甘利大臣の辞任について。政権の中枢をになっていた甘利の辞任が、まったく政権の安定を損なう影響を及ぼしていないことは、興味深い。すでにTPP 交渉がまとまっていた、というタイミングの幸運にめぐまれたこともある。しかし、それよりも大きいのは、現在、こうした重要閣僚のスキャンダルが起こったとしても、それを野党が正面から攻撃できないという戦略的環境があるように思える。すなわち、そのような批判は、「野党は、スキャンダルを批判することしかできないのか」というような反応を生むのではないか、ということである。
  • 安倍政権の残した大きな負の遺産としては、内閣法制局のあり方を大きく変えてしまったこと(あるいはその信頼を大きく損ねたこと)、そしてメディアへの介入がある。この二つは、構造的、すなわち今後長くツケを負うことになる影響を残した、ということができる。