(再び)Journalism in Japan?

日本の官僚制の問題点は、省庁別採用に集約される。国益でなく省益しか見えない官僚が生まれてくるのも、また官庁間で縄張り争いが起こるのも、さらには限られた将来展望の中で出世のためには自分の上司を批判したり前任者の路線を変更したりすることが容易でないのも、すべて、(原則として)一旦雇われたらその省庁でしか働くことがない、という現行システムに原因がある。

この諸悪の根源の省庁別採用の影響を考えるためには、省庁を超えた採用をしている状況を想像してみればよい。そのような状況であれば、上司が有能でないと思えば、今よりは少しは自由に批判できるようになるだろうし、また前任者の政策がまちがっていると思えば勇気をもってそれを止めることができるようになるであろう。なぜなら、もし省庁を超えた採用がなされているなら、自分がいまつとめている以外の省庁は、そのように思いきって誤りを正し改善しようとする、気概あふれる人材を、みずから採用したいと思うようになるからである。つまり、そのような状況では、官僚の「市場」がうまれ、競争が促進され、ひいては官僚ひとりひとりが個人の能力を高めようとするインセンティヴが根付く。

さて、日本のメディアも、この官僚制とまったく同じ問題を抱えている。いまの日本では、たとえば、一度朝日新聞社に雇われた人間は、いくら優秀でも、けっして読売新聞社にひき抜かれることはない。日本には、朝日の記者はいるし、読売の解説委員はいる。しかし、その間をつなぐ「市場」は存在しない。本来、ジャーナリストとは、朝日に雇われていようが、読売に雇われていようが、ジャーナリズムそのものにたいしてコミットしていなければならない。だから、ジャーナリストは、みずからの信じるところに従って、自分の会社に関しても、おかしいと思うことを告発しなければならない。ところが、彼らは会社別採用により、永久就職する。それゆえ、それぞれの新聞についた政治色が払拭されることはなく、むしろそれが再生産され続けるという構図が出来上がっているのである。日本のメディアは、日本の官僚制の悪しき風土を批判する資格をもたない。

この前、ボストングローブというアメリカの新聞のコラムニストが国際交流の一環として日本を訪れ、取材を受けるということがあった。彼はボクに自己紹介するときに、「ボストングローブは、リベラルな新聞です。ただ、そこに雇われている数人のコラムニストの中では、私は保守派です」と自己紹介をした。つまり、ボストングローブというリベラル紙は、リベラルなコラムニストばかりをならべていてはバランスがとれないと自覚し、わざわざ、反対の保守派のコラムニストを内にかかえる、という方針をとっているのである。日本の大手新聞社に、このような度量があるだろうか。ジャーナリズムが自己批判を恐れているようでは、ジャーナリズム足りえない。これは、ボクにはあまりに当たり前のことに思える。

Advertisements

(続々)Journalism in Japan?

テレビをみていると、どうしてもこの人が出てくるとチャンネルを回してしまう、という人がいる。気持ち悪くなる、というか、生理的に受け付けない、そういう人のことである。おそらく、こうした反応は、多かれ少なかれ、(対象となる相手が誰かは別にして)どのような視聴者にも起こることではないか、と思う。

さて、ボクにとって、そういう人の一人に、ある有名な女性作家がいる。そして先日、前に自分もよく出ていたテレビ番組(←こういってしまうとすぐわかってしまうが)に、この方が出演していた。この方は、同番組に頻繁に出演するので、きっと番組を作っている側の見方からすれば、その発言や考え方に魅力があると思っているのであろう。ところが、ボクにとっては、この人はまさに天敵、顔を見るのも嫌だし、喋っている声も本当に耐え難い対象なのである。

さて、しかし、その日は、自分の生理的反応を押し殺して、いったい何で自分はこの人に対し、「この人がでてくると、チャンネルを回してしまう」というくらいの強い拒絶反応をするのかを自己分析したいと思った。で、気持ち悪さをひたすら我慢して、一生懸命、その番組を見続けた。ちょうど「移民」という興味のあるトピックであったし、共演している学者の方がとても落ち着いて素晴らしいコメントをなさっていたので、なんとか2時間(弱)見続けることができた。

その結論であるが、ボクがこの女性作家を耐えられないと思うのは、結局のところ、この方が「知的会話」ができない人だから、ということがわかった。キャスターの質問に、まともに答えることがない。いつでも、自分の知っている分野ないしは事柄に話題を引き寄せて、発言しようとする。要するに、他人を尊重しないという態度、人の意見や考え方などはどうでもよく、自分の話だけを延々とし続ける、そういう態度を、ボクは限りなく不快に思い、それで「この人が出てくるとチャンネルを回してしまう」という行動をとるのだ、という分析結果を得たのである。

さて、本題は、ここからである。おそらく、であるが、この方を番組に出演させ(続け)ているメディアは、よほどのボンクラでない限り、このこと、つまりこの方が知的会話ができない、ということに気がついている。実際、この番組のキャスターは、質問にまともに答えないこのゲストに対し、ときおり同じ質問を繰り返したり、答えてくれるよう懇切丁寧な誘導をしようとしていた。しかし、それは何を意味するかというと、この番組をつくっている方々は、善意ではなく悪意、すなわち、たとえその日のトピックからずれていたとしても、この方の話しの内容がそれなりに面白ければそれでよい、あるいは、この方を出すことで固定ファンがみてくれればそれでよい、そういった計算のもとにこの方を出演させている、ということになるのである。

こうした判断は、ボクにいわせれば、実に間違った判断である。なぜなら、第一に、まともに知的な会話もできない人を繰り返し出演させるということは、視聴者のリテラシーを低く見積もっていることになる。さらに、メディアには、視聴者のリタラシーを向上させていく機能が期待されているのであって、この場合、それを放棄していることになるからである。こうした番組を作る側は、もし知的会話が成り立っていないということに気づいているならば、それを番組の中で視聴者にわかる形で、もっと正確にいえば、(知的会話が成り立っていないということ自体ではなく)知的会話が成り立っていないことを自分たちが気づいているということを視聴者にわかる形で、伝えなくてはならない。もちろん、一番適切な対応は、そもそも、そのような知的会話が成立しないような人を、ゲストとして(なんども)呼んでこない、というように、人選の段階で誤った判断をしないことなのである。

 

(続)Journalism in Japan?

日本では、大手の新聞が定期的に全国世論調査を行っている。世界的にいえば、日本でのこうした世論調査の頻度はかなり高い方であり、表面上は、日本のメディアは民意を汲み取る努力をしているようにもみえる。しかし、実際は、そのような肯定的な評価を下すわけにはいかない状況にある。

大きな問題は、よく知られている通り、日本の大手新聞の世論調査の結果に大きな開きがあることである。たとえば、安倍内閣に対する支持・不支持や、憲法改正に賛成か反対かというような項目に関しては、ほとんど同時期に行われた調査でありながら、A新聞とY新聞とのあいだに5から10ポイントぐらいの差があることは日常的で、ときには15ポイント以上離れていたり、支持・不支持や賛否が逆転したりしていることさえある。

こうした現象に関するわれわれ同業者(すなわち世論調査を専門に研究している政治学者)のすぐさまの答えは、それは質問項目のワーディングが異なるからだ、というものである。たしかに、同じ質問を尋ねているようでも、新聞ごとに正確な訊き方は異なり、そのニュアンスによって回答者がどちらかの回答へと「誘導」されている可能性は高い。

しかし、話はここでおわらない。というのは、A新聞とY新聞(あるいはM新聞とS新聞でもよいが)にみられる調査結果の違いは、このワーディングのちがいだけでは説明できないほど大きいからである。それは、同じ内容の質問をしているとしか思えないときでも、統計的に有意な差があることからもわかる。たとえば、内閣に対する支持・不支持などというのは、本来は、どのようなワーディングで訊いたところで、回答の分布にそれほどちがいがでるべきものではない。

そこで、われわれ同業者が疑っているのは、そもそもA新聞の回答者サンプルとY新聞の回答者サンプルとが、著しく異なっているのではないかということである。世論調査というのは、ひとりひとり、あるいは一軒一軒、無作為に選ばれた回答者に対して「すみません、世論調査に協力していただけますか」と、同意を取るところからスタートする。しかし、もしこの時点で、たとえば、「どこの世論調査ですか?」「A(Y)新聞です」「冗談じゃない、おたくのような左(右)翼の新聞に協力できるものか」などというやりとりがあり、それぞれの新聞の調査に応じてくれる人々の属性に大きな偏りが生じているとすると、当然のことながらその回答の分布にも違いが生じることになる。だとすると、たとえまったく同じワーディングに合わせたとしても、各社の調査結果には永遠に差が残る、ということになる。

もしこのようなことが起こっているとするならば、それは、個々の新聞社が自らに貼られているレッテルというか、色付けというかを乗り越えて、政治的に中立的な世論調査をできない状況におかれている、ということを意味する。いいかえれば、それは、日本の新聞社が世論分布を客観的に把握するという、メディアに与えられた役割のひとつを担うことができていないことを意味するのである。このように開きがある調査結果を、ずっと第一面に掲げ続けて恥ずかしくもなんとも思わない新聞社は、そのこと自体、メディアとしての自覚を欠いているといわなければならない。もし彼らに真のジャーナリズムとしての気概があるならば、いかにしてそれぞれの社名に染み付いた政治的色付けを払拭して、正しい世論調査を行えるようになるか、どうしたら有権者に本当に意味のある客観的な世論調査結果を届けられるようになるかを、お互いに—そう、お互い協力して—、知恵をしぼるべきなのである。

Journalism in Japan?

安倍首相とプライベートで寿司を一緒に食べるメディア関係者がいるらしい。まあ、誘う方も誘う方だが、こともあろうに、中には首相と同席したことを自慢げに語る人もいるらしい。寿司は別にして、実際、首相との関係が近いこと(たとえば携帯番号を知っているとか、携帯に直接電話がかかってきたとかいうこと)を、テレビやラジオで視聴者に伝える自称ジャーナリストたちもいる。どうも当人たちは、それを「さらりと」やっているつもりらしいのであるが、聞いている方からすると「わざとらしく」というか「みえみえに」しかうつらない。

いずれにせよ、こうした行動は、ジャーナリズムなるものの理念に真っ向から反するものである。海外の一流のジャーナリストたちは、権力の座にある人たちと「近いこと」ではなく、まったく逆に「一定の距離を保っていること」を自慢する。たとえば、ディナーに誘われたけれど断った、ということを自慢するのである。

この一事からも明らかであるが、日本のメディア業界は、国際化・グローバル化が著しく遅れた業界だといわねばならない。いったい、日本でジャーナリストとよばれる人たちの中で、国際標準に達しているといえる人たちが、どれだけいるか。世界のリーダーたちが集まる場で、他の記者たちを差し置いて、あるいはそうした同胞たちからも一目置かれて、質問をする機会が与えられる日本人がどれだけいるのか。

世界標準に達していない人たちが(新聞の)紙面をつくったり(テレビの)報道・情報番組を作ったりしているので、こうした一般向けのメディアにでてくる「専門家」の顔ぶれが、実にひどい。とくにテレビの人選は、本当にどうしようもないと思う。自分の専門の政治学、そして多少は知っている経済や心理など社会科学の分野についてに限っても、なぜこうも、研究者になりそこねた連中ばかりが、専門家としてつぎからつぎへと登場するのかといぶかってしまう。

現在の日本のメディアは、二重の意味で、日本の国益を損なっている。そもそも、メディアに属するものたちが、みずから切磋琢磨し国際競争をするに至っていない。そして、そのように「世間知らず」ならぬ、「世界知らず」の人たちが紙面や番組を作っていることにより、それらを受け取る一般の人々のリテラシーが、ますますガラパゴス化しているのである。日本では、ジャーナリズムはまったく機能していないとさえ、いえるのである。(この項続く)