再び、死について

この話題については、もう随分前のブログ(2007年02月26日)でも取り上げたことがあるのだが、再び、ちょっと考えることが最近あったので、書いてみる。

実は、妻の連れ子であるモモ(ミニチュアダックス)が死んで、一年がたった。

いま2歳半になる息子は、生前モモと遊んだことがあり、多分(遊んでいるところがビデオに残ったりもしているので)その記憶もある。すくなくとも、モモといえば、うちにいた犬である、ということを認識している。

ボクは、モモの話題になると、「モモは死んじゃったの」と息子に説明をしていた。しかし、もちろん「死」という概念が、2歳半の子供に伝わるわけはない。そこで、例によって、というか、まあ当たり前のように、「モモは遠くにいったんだよ」とか、「いま、お空でみんなのこと、見てるんだよ」とかいう説明をしていたのであった。

さて、そのモモの遺骨を、一年間はずっと家においていたのであるが、一周忌も迎えたので、ある場所に散骨しよう、ということになった。で、妻とボクと息子は、ある朝、早く起きて、よく連れて行った散歩コースの海沿いで散骨をした。なぜ、そこにしたか、というと、いまでもボクらはそのあたりをよく散歩するので、モモがさびしくないように、という意味をこめてであった。で、お骨をまきながら、「モモは、ここに来れば会えるからね」と息子に説明した。なむ、なむ。

しばらくたって、保育園の帰りに息子と散歩していて、その近くに差し掛かると、散骨した日のことを思い出したのか、ボクに「モモちゃん、どこにいる?」とたずねる。間違いなく、息子は、骨をまいた地点のことを念頭において、その質問をしたのであった。

その時、ボクは混乱した。なんと説明をすれば、いいのであろうか。たしかに散骨したのはその地点であるけれども、そこにいまモモが「いる」わけではない。その地点を散骨の場所として選んだのは、まさにそこにずっとモモがいるというふうにわれわれ自身が思い込むためではあるが、「思い込む」などという上等な思考作業を、2歳半の息子ができるわけはない。この時、なんと説明をすることが正しいのか ==これは正確性という意味ではなく、どちらかというと「正義にかなっている」という意味での正しさである== 実際のところ、わからなくなっていた。苦し紛れに、「モモはね、ボクらの心の中にいるんだよ」といってみる。しかし、息子にしてみれば「ここにくれば会える」といわれているので、もちろんそれでは通じるわけがない。

われわれは、死という概念をうまく説明することができない。これは非常に単純だが、まぎれもない事実である。

もちろん、息子が大人として成長していけば、死という概念をわかるようになる、というふうに考えることもできる。しかし、本当にそうだろうか。われわれ大人は、「死とは何か」をわかったふりができるだけではないのだろうか。あの人は死んだんだと「思い込む」こと、大人はその「思い込み」の術を獲得しただけに過ぎず、死についての理解の深さは、大人もボクの息子も大差がないのではないか。そんな気がするのである。

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