比較することについて

最近、この「比較すること」という、漠然とした問題について、漠然と考えている。実は、ボクが自分の書いた中でも結構気に入っている小文に、「比較政治学の方法論」という文章がある(河野勝・岩崎正洋編『アクセス比較政治学』所収)。で、この文章には「なぜ、なにを、どのように比較するか」という副題までついていて、そこでは比較するということがいかに重要か、比較することがいかに科学的思考の原点にあるか、などということを訴えている。しかし、本当にそうなんですかねえ・・・と、ちょっと、このところ、腑に落ちないのである。

たとえば、であるが、ボクには、20歳以上はなれた子供が二人いる。つまり、一人目が大学に入り、まあボクがいなくなってももうなんとか生きていけるだろうと、肩の荷を下ろしたときに、二人目が生まれることになったのである。で、ボクは、最初の子供が娘だったので、二人目が同じく娘だったら嫌だなあ、と直感的に思った。なぜなら、ボクは今に至るまで、本当に自分の娘はうまく育ってくれたな、自分との関係もきわめて緊密で素晴らしい親娘関係が築けたな、と思っており、もし二人目も娘だったら、どうしても二人を比較してしまうのではないか、と心配になったからである。というわけで、告白するに、現実には二人目が男の子であったので、ほっとした。仮に今回、自分なりに子育てが満足いくようにいかなかったとしても、前回の娘の経験を引き合いにだして、ああでもない、こうでもない、などと悩むことがなくてすむのではないか、と思えたからだ。

子供を育てるための前提には、子供が無限の可能性をもっているという確信がなければならない。無限と無限とを比べて、どちらが賢いとか、どちらが優しいとか、どちらがナントカとか、などと評価することはできない。だから、子育てをするための心の準備のひとつは、比較するということ自体をかたくなに拒絶する態度を身につけることではないかと思う。

話は飛ぶが、(といっても、根っこは同じことについてだと思うが、)われわれのような職業をしていると、ときどき「絶対評価をしてください」と頼まれることがある。たとえば何かの賞の候補に推薦されている対象物がたくさんあれば、それら複数の間の相対評価が可能になるが、ひとつしかないときには、そのひとつが賞にあたいするかどうかを、その対象物固有の価値に則して判断しなければならない、というわけである。しかし、「絶対評価」などというものは、ボクにいわせれば定義矛盾である。なぜなら、「評価」と口走った瞬間に、それはなんらかの他のものとの比較を前提にしなければえられないものだからである。つまり、賞の例についていえば、それはまさしく、過去にその賞を受賞した作品、ないしは将来においてその賞を受賞する作品と比較して、同等の水準にあるかどうかを判断してくださいと依頼されているにすぎず、そこにはその「水準」という比較対象がある。絶対評価なるものは、それをなんと呼ぼうと、絶対に(!)相対評価にすぎない。

さて、話はさらに飛んで(といっても、再び、ボク的には同じことについて論じているのだが)、いまの世の中に「評価」なるものが氾濫しているのは、いうまでもなく、統計学の考え方が蔓延しているからにほかならない。そして、統計学なるものは、あくまでひとつの考え方、世界観でしかなく、そのことは今日において、もっともっと強調されるべきだと思う。たとえば、あるひとつの事柄についての描写(description)が純粋な描写ではありえず、かならずそれ自体がなんらかの推論(inference)となっているという、昨今の社会科学における「常識」も、統計学という考え方ないし世界観を受け入れてはじめて成り立つ。しかし、どのような事柄にも、それが属する母集団があり、その分布のどこかに位置づけられるはずだという考え方自体、あたかも神様のような、母集団なるものを見極める能力、いいかえれば一見比較することが不可能であるかのようにみえるもの同士であっても比較可能なものとして扱っても良いと断言できる能力を前提としなければ成り立たない。そのような能力を前提とすること自体、場合によっては、きわめてグロテスクな思想となる可能性を含んでいる、ということは、おりにふれ思い起こされなければならないのである。(ボクのいう「きわめてグロテスクな思想」なるものが、どのような分布にのっているのかを考えることももちろんできるが、そのような展開が反論—再反論・・・の無限の連環に収束していくことは、明らかだと思う。)

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